この原稿を書こうと思った時に、アメリカの大手AI企業がキリスト教の神父や神学者の方と会談をしたと言う話が伝わってきました。AIが急速に発展し、単なる情報の蓄積だけではなく、色々な側面からの善悪の判断を考慮しなければならないほど、高度になってきたということでしょう。
AI、いわゆる人工知能は、インターネットに蓄積された膨大な情報を検索し、分析し、推論するプログラム群です。脳神経の研究などかなり最新の概念が盛り込まれ、本当に早い速度で発展しています。現在様々な分野で応用され、社会に大きな変化を生じさせようとしています。特に対話型AIと呼ばれるプログラムは、情報の調査や思考の助けになったり、単なるおしゃべりに付き合ったりする便利なものです。しかし、対話型AIに依存し、周りの人を信用しないで、AIに示唆されたように自殺する人まで現れ、先のような話になったのでしょう。
科学技術・工学技術は、人間や自然を傷つけないように発展させないと後で大変なことになるのは、この百年間を見れば明らかです。
AIも急発展している今だからこそ、正しい方向を考えないといけないと行動を起こしたのかもしれません。
善悪とは何か。法令的、社会的、倫理的、宗教的、色々な善悪があります。
仏教での「善」は、私の言葉で説明すると、自分も相手もまわりの人や環境も、そして
未来も不利益になるようなことがあってはならない、といえるかと思います。傷ついたり、嫌な思いをしたり、我慢したりすることなく、みんなが「良かったね」といえることこそ、正しい善だということです。
ところが、仏教はそこで話が終わりません。
仏教の善を私達人間が出来るのか、という事を問題にするのです。お釈迦様は、私達人間には切り離せない煩悩がある事を明らかにされました。煩悩というのは、一言でいうと、自分勝手という事です。先ほどまわりの事を考えるのが善だといいましたが、自分に都合が良く、まわりの事なんて考えない勝手な判断をしてしまう自分がここにいるのです。お釈迦様のすごいところは、そんな矛盾を乗り越えていく生き方を見いだされた事です。それを仏教というのです。
親鸞聖人は、お念仏の教えに出遇い、自らを煩悩具足の凡夫、つまり煩悩以外を持ち合わせていない自分であると自覚され、その私が阿弥陀仏の救いに支えられて、仏教の善を見失わない生き方が出来るようになったとお慶びになりました。
今、世界中で「自分勝手で何が悪い」と生きている人が多く、混乱した社会が広まっています。そんな時だからこそ、改めて仏教の教え、浄土真宗の教えに耳を傾けていただきたいと思うのです。
どうぞ、ご法座にお越しいただき、ご法話をお聞きくださいませ。
『正覚寺報 第293号 2026年 降誕会法座』掲載