一法句 ほとけさまの救いの「手」
時々「ご先祖様を粗末にするとバチが当たるんでしょ 」と聞かれることがあります。バチを当てるというのは、気にくわないことがあって怒るからでしょう。ところが、阿弥陀仏のお救いに遇われた方は、いのちが終わった直後から仏となられお浄土にいらっしゃいます。仏とは煩悩が無くなった方です。怒りという煩悩も無くなっていますから、腹が立つことも無いのです。ですから仏様はバチを当てる事が無いのです。バチを当てるという宗教もあるのでしょうが、浄土真宗の教えではありません。宗教はそれぞれ違うのだと受け止めていただきたいと思います。
さて、改めて「仏様」とはどんなお方なのでしょうか。煩悩を無くした方なら、なんか無表情で感情がない冷たい感じがするのかなと思う方もいらっしゃると思います。というより私も昔はそんなふうに思っていました。しかし、インド旅行をきっかけにそうではないことに気がつきました。
大学一回生の春休み、ちょうど今の時期にインド旅行に行かせてもらいました。龍谷大学という浄土真宗を学問的に研究する大学に通っていましたが、図書館でインド旅行のチラシを見つけました。それもお釈迦様を尋ねる仏蹟参拝ではなく、仏教遺跡を廻る旅行でした。昔から考古学に興味があった私は、その旅行に参加をして初めてのインドへと行かせていただきました。インド中部には、石窟寺院と呼ばれる岩の崖を掘り出して造った寺院の遺跡があります。建物の空間だけではなく仏像なども全部削り出しているのです。その地域は乾燥地帯で木材を使うことが出来なかったそうですが、岩で造られたおかげで、今でも千年から 千五百年前の仏教のお寺の形を見る事が出来るのです。
ある遺跡を訪れたところ、その入口に片手をあげた仏様の像が彫られていました。その像を見た時に、「あっ」と気がつきました。片手をあげる動作は、誰かに声をかける時です。入口でそのお寺にお参りに来た方々に、仏様自ら手を上げ迎え入れてくださっているのです。仏様の方から声をかけてくださるそのやさしさが仏教なのだと。仏になるという事は、あたたかく、やさしく、すべてのものに平等に接する事が出来るようになるという事なのです。
お浄土にいらっしゃるご先祖様はみんな仏様になっておられます。私達もいのちが終わればその瞬間に、阿弥陀仏の力によって仏と成りお浄土へと往かせていただきます。お浄土の皆さんは、手を上げて笑顔で私達を迎え入れてくださることでしょう。
そんな瞬間を思い浮かべながら、西に沈む夕日の先にある西方浄土に、思いをはせていただきたいと思います。
この度の春彼岸法座は、住職がご法話を務めさせていただきます。そんな仏様のお話をしようと思っていますので、どうぞお誘い合わせの上お参りくださいませ。
正覚寺寺報 287号 掲載